近年、メンタルヘルス不調による休職・退職は増加しており、その背景には、個人要因やハラスメントだけでは説明しきれない「職場の認知ギャップ」という構造的課題が存在する。ここでいう「認知ギャップ」とは、主に従業員本人と職場・上司との間に生じる支援の必要性や業務の期待水準に関する認識のズレを指す。
本稿では、この認知ギャップを起点としたメンタルヘルス不調の予防および再発防止のあり方について、管理職教育、復職支援、専門職配置の三つの観点から、組織としてギャップを可視化し継続的に埋めていくための実効的な取り組みの方向性を考察する。
目次
1. はじめに:メンタルヘルス不調対策の重要性
近年、メンタルヘルス不調により休業・退職するケースが増え続けている。厚生労働省の安全衛生調査によると、メンタルヘルス不調により連続1カ月以上休業した労働者または退職した労働者がいる事業所の割合は増加傾向にある。[1]
2024年のパーソル総合研究所の調査によると、過去3年以内にメンタルヘルス不調を経験した正規雇用者は14.6%に上り、年代別では特に20代のメンタルヘルス不調による退職率が高い。[2] 組織にとって、若手人材の喪失は採用・人材育成の投資コストのリターンが失われるだけでなく、組織の人員構成の乱れを引き起こし、中長期的な経営基盤に関する問題に発展しうる。また、同調査では、メンタルヘルス不調になった部下の対応をした管理職の4~5割が、業務上や精神面の負担が大きかったと回答している。メンタルヘルス不調の発生は、一時的な人員数の減少という直接的な影響だけでなく、職場全体の生産性にも影響を与える問題である。
同時に、メンタルヘルス不調の発生は組織にとってのみの問題ではない。2018年の独立行政法人労働政策研究・研修機構の調査によると、機関投資家が開示してほしい人事施策・CSR関連情報のうち、相対的に関心が高い項目として「メンタルヘルスによる休職者数」(1位)、「従業員の健康維持・増進に対する取り組み」(3位)が挙げられている。[3] この結果は、投資家の中で、従業員のメンタルヘルスが企業の価値そのものに直結する経営課題との認識があることを示している。したがって、メンタルヘルス不調に対する取り組みは、単なる労働安全衛生の一環としてではなく、経営戦略および人的資本マネジメントの重要施策として位置づけた上で、体系的な対策を講じる必要がある。
2. 現状:メンタルヘルス不調発生事由の複雑化 ― 休職は「個人の問題」だけではなく「職場との認知ギャップ」に起因している
従来、メンタルヘルス不調が発生する要因は、本人の性格的な脆弱性や明白なハラスメント事例に起因するものとして理解されることが多かった。例えば、2012年の労働政策研究・研修機構の調査では、事業者側が考えるメンタルヘルス不調者の発生原因として、最も多く挙げられた項目が「本人の性格の問題」である。[4] また、厚生労働省が2013年に発表した「第12次労働災害防止計画(平成25~29年度)」内のメンタルヘルス対策の1つとして、「パワーハラスメント対策の推進」が挙げられている。[5]
しかし近年は、メンタルヘルス不調に陥る要因がこれまでの想定よりも複雑かつ複合的になり、「明確な要因や加害者がいない」ケースが増加していることが、産業医や産業カウンセラーへのインタビューで明らかになってきた。最近では「オンラインと対面が混在するハイブリッドな働き方」や「複数チームを横断して仕事をする働き方」が一般化しており、上司と部下が気軽に状況を共有するための雑談を持ちにくい環境になっている。また氷河期世代と現在の20代では経験してきた社会状況が異なり、仕事に対する価値観にも大きなギャップがある。組織の構成としても氷河期世代は人数が少なく、その結果、「困っていても相談できない」「価値観を共有する機会がない」という構造的なコミュニケーション不足が静かに拡大している。このような「認知のズレ」が長期的に蓄積されることがメンタルヘルス不調の温床となりうる。
さらに年代別に傾向を見ると、メンタルヘルス不調に至る背景要因には明確な違いがあるものの、そうした違いが世代を超えて共有されづらい現状となっている(図2)。
また、2016年の厚生労働省の労災疾病臨床研究補助金事業の研究によると、気分(感情)障害(うつ病等)により休職し復職したフルタイムの労働者540名のうち、復職日から6カ月で約19%、1年で約28%、2年で約38%、5年で約47%が再度休職を取得している。[6] 復職者に対し、「関わり方が難しい人材である」といった暗黙のラベリングがなされ、結果として過度に踏み込まない、いわば“腫物扱い”の対応が固定化しているケースも少なくない。こうした認識は、表面的には配慮やトラブル回避として機能しているように見える一方で、本人の困難や変化を把握する機会を失わせ、必要な対話や支援が行われないまま認知ギャップが温存される構造を生み出している。
3. 対応策:人事と現場両面での改善
このような背景の中で、組織は何を従業員に提供し、何に留意すれば認知ギャップを埋められるのか。一般的に、組織から従業員に提供されるべき事項の全体像は、以下のように「メンタルヘルス不調の未然防止」「メンタルヘルス不調の早期発見/早期治療」「休職した従業員の職場復帰支援/再発防止」で整理される。 本章では、職場における認知ギャップを埋めるという観点から、特に①~③の対応策を紹介する。
①管理職向けメンタルヘルス教育・研修の提供
メンタルヘルス不調の明確な原因とされてきたハラスメントについては、特に管理職を対象とした研修を実施している組織が多いだろう。筆者らは職場環境改善のための現状把握として現場ヒアリングを実施する機会があるが、その中でも「組織の長が組織の雰囲気を決める」という意見は非常に多く、管理職の振る舞い次第で認知ギャップの差が埋まることもあれば、深い溝のままの場合もある。職場の雰囲気に対して感度の高い管理職は、本人が与える影響の大きさを把握した上で、「自分の言動で皆が萎縮していないか」「不用意な言い方がハラスメントとして捉えられるのではないか」と懸念している。したがって、管理職向けの研修においては、単にハラスメントに関する知識を教え込むだけでなく、より実務に即した「部下との認知ギャップを埋めるための実践的教育」が求められる。
教育実施時の工夫として、管理職が実施すべきラインケアそのものの紹介だけでなく、具体的なコミュニケーションを実践するための研修を取り入れることが有効である。厚生労働省の「事業場におけるメンタルヘルス対策の取組事例集」では、管理職を対象に講習会を開催し、傾聴にフォーカスした講義と実習を行う事例が挙げられている。[7] 特に対面の研修においては、実習パートの時間を多めに確保し、普段の部下との関わりにおける実践の練習となるプログラム設計が肝要だ。
②復職者の復帰支援
前章で述べた通り、メンタルヘルス不調による再休職率は高く、休職者の復帰時にも対策が必要である。人事側からの提供事項として、復職時の面談やリワークプログラムを用意している組織は多い。ただし、その継続性や制度周知の範囲には依然課題が残る。単に「復職支援」とするのではなく、「復職者との認知ギャップを埋めるために実施する施策」としての実効性が必要だ。
先進的なケースでは、再休職の防止を意識し、復帰時のみで終わらせないフォロー体制を構築している。例えば三井不動産では、復職後1年間にわたり産業医と公認心理師による定期的な面談を行っている。[8] このような面談により、復職者本人の率直な考えを引き出して整理でき、職場との認知のすり合わせを促す。すでに人事側で復職プログラムを設計している場合でも、復職者本人と職場との認知ギャップを継続的に埋めるという目的に対し十分な設計・運用になっているかどうかを、再休職の発生実態と照らし合わせて検証し、必要に応じて制度を見直すことが求められる。
また、現場においても、復職者本人との十分な会話が求められる。復職初期は一定の配慮がなされるが、時間の経過とともに周囲とのコミュニケーションが希薄化し、再び認知のズレが生まれやすい状況に戻る傾向がある。特に復職直後は通常業務と配慮の境界が曖昧であるため、復職者は自らの役割を過小評価しやすく、「このまま仕事を続けられるのか」という不安や焦りが生まれやすい。加えて、周囲とのコミュニケーションが減少すると、他の同僚と比較して業務量が軽減され続けていることに負い目を感じ始め、再び不調が発生しても上司に共有できなくなるという状況が発生しがちである。このような事態を未然に防ぐために、本人と上司の期待値を定期的に擦り合わせる「役割棚卸面談」を運用に組み込むことが望ましい。なお、この面談は30分程度でも十分に機能する。むしろ「気軽に本音を確認する場」として制度化することが、長期的にはメンタルヘルス不調の再発防止につながる。
上司以外の同僚などに対しても、「休職者に対していつまで配慮すべきか」が不透明な状況はコミュニケーション不全を発生させやすい。復職時は、人事から復職者の直属の上司に復職に際してのスケジュールや注意点を連絡するだけでなく、その上司が現場の従業員に周知するような仕組みづくりと運用が重要である。
③専任スタッフの設置・活用
「認知ギャップ」を埋める重要性については前章で述べた通りだが、組織は「どのようなギャップが発生しているのか」という具体的な内容を把握する必要がある。昨今の傾向として、職場のメンタルヘルス問題が深刻化しているという社会的背景から、メンタルヘルスに関する専任スタッフの設置が一般的になりつつある。2022年の労務行政研究所の調査によると、現状、多くの企業では「メンタルヘルス対策の実務を行う専門スタッフ」として、人事労務担当者を選任している。[9] 専任スタッフの設置・活用に際しては、「どのような目的で、どのような効果を期待して」選任するのかを明確にすることが望ましく、設置後も期待通りの効果が出ているのかに関して効果検証が不可欠である。
特に認知ギャップについて正しく把握できるかという観点は重要であり、いまだ専任スタッフを配置していない場合、産業カウンセラーの配置を推奨する。産業カウンセラーは、従業員のメンタルヘルス関連の相談を通じ、各自が抱える認知ギャップについて把握し、それを組織側にフィードバックすることができる。従業員にとっても、気軽に相談ができる相手が組織内にいるというメリットは大きい。
また、復職後の加療要否判断がメンタルヘルスの専門家でない本人や職場に任されてしまっている場合、必要なアラートがあげられず、結果として再休職の危険性が高まる可能性も考えられる。本人の同意を得た上で、従業員の休職時の医療情報を扱える担当者として保健師を配置することも一考だ。産業カウンセラー同様、職場の課題を吸い上げる機能も期待できる。
4. おわりに
メンタルヘルス不調をめぐる課題は、個人の問題や明確なハラスメントとして片づけられる段階を超え、組織内に潜む「認知ギャップ」をいかに捉え、埋めていくかという構造的なテーマへと移行している。働き方の多様化や世代構成の変化により、上司・部下間の価値観や前提のズレによる「認知ギャップ」は今後さらに拡大する可能性が高い。だからこそ、管理職教育、復職支援、専門職の活用といった取り組みを通じ、組織として継続的にギャップを可視化し、対話を重ねる仕組みと運用が不可欠である。従業員が安心して働ける環境づくりこそが、組織の持続的成長につながる。
[1]厚生労働省(2020-2025), “労働安全衛生調査(実態調査)”, https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/list46-50_an-ji.html(参照2026年1月23日)
[2]パーソル研究所(2024), “若手従業員のメンタルヘルス不調についての定量調査”, https://rc.persol-group.co.jp/thinktank/data/young-mental-health/(参照2026年1月23日)
[3]独立行政法人労働政策研究・研修機構(2018), “企業の人的資産情報の『見える化』に関する研究”, https://www.jil.go.jp/institute/research/2018/185.html(参照2026年1月23日)
[4]独立行政法人労働政策研究・研修機構(2012), “職場におけるメンタルヘルス対策に関する調査”, https://www.jil.go.jp/institute/research/2012/100.html(参照2026年1月23日)
[5]厚生労働省(2013), “第12次労働災害防止計画(平成25年度~29年度)”, https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudoukijun/anzen/anzeneisei21/12-pamph.html(参照2026年1月23日)
[6]厚生労働省(2016), “主治医と産業医の連携に関する有効な手法の提案に関する研究”, https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudoukijun/rousai/hojokin/dl/28_14010101-02.pdf
(参照2026年1月23日)
[7]厚生労働省(2020), “事業場におけるメンタルヘルス対策の取組事例集~いきいきと働きやすい職場づくりに向けて~”, https://www.mhlw.go.jp/content/000615709.pdf(参照2026年1月23日)
[8]厚生労働省(2023), “こころの耳 職場のメンタルヘルス対策の取組事例 三井不動産株式会社(東京都中央区)”, https://kokoro.mhlw.go.jp/case/company/cmp127/(参照2026年1月23日)
[9]労務行政研究所(2022), “メンタルヘルス対策の最新実態”, https://www.rosei.jp/readers/article/82816(参照2026年1月23日)