SAP Sapphire 2026 現地レポート

Autonomous Enterprise時代に、SAPユーザー企業と導入検討企業は何をすべきか

コンサルタント執筆記事

2026.06.01

サマリー

  • SAPは2026年5月12、13日開催のフラグシップイベントSAP Sapphireで「Autonomous Enterprise(自律型エンタープライズ)」構想を発表し、ソフトウェア企業からビジネスAI企業への転換のビジョンを宣言した。
  • その中核となる新基盤「SAP Business AI Platform」は、SAPのERP企業としての50年の蓄積に基づくナレッジグラフを売りとした「ビルド」「コンテキスト」「ガバナンス」の3層構造で、AIエージェントのハルシネーションを抑え信頼性と正確性を担保する設計思想に立脚する。
  • 基調講演に登壇したエクソンモービル、リーバイスなど先進企業の実例は、AI実装の前提として、「クリーンコア」「データ統合」「チェンジマネジメント」が不可欠であることを示した。
  • 日本企業の多くが2027年問題(SAP ERP Central Componentの標準サポート終了)を抱える中、SAPが示した「Autonomous Enterprise」のビジョンへどう向き合うべきか。本稿ではイベント現地で得た筆者の考察を提示する。

1. はじめに

SAP Sapphireは、ERPソフトウェア企業のSAPが年に一度開催するフラグシップイベントである。SAP経営陣によるグローバル戦略の発表、新製品・新ビジョンの初公開、業界エキスパートおよび大手顧客企業による事例セッション、そしてパートナー企業との商談の場が展開される。2026年は5月12日・13日、米フロリダ州オーランドのOrange County Convention Centerで開催され、世界中から3万人を超える参加者が集まった。

日本企業(とくにSAPソリューションを導入している、もしくは導入を検討している企業)にとって、SAPがSAP Sapphireで打ち出すグローバル戦略・製品ロードマップは、今後1〜2年の自社IT戦略の前提条件となりうる。本年のSAP Sapphireは、AI時代の到来に合わせて、例年になくビジョン色の強いものとなった。本稿では、イベントに現地参加した筆者の視点から、SAP Sapphire 2026で打ち出された内容を整理し、日本企業はそこから何を読み取るべきかについて示唆と考察を提示する。

2. 「SaaSの死」を超えて ─ SAP SapphireでSAPが示した回答

2-1. 「SaaSの死」が論じられる時代背景

昨今の生成AIの急速な進化を受け、「SaaSの死」が真剣に論じられている。生成AIがコードを書き、業務ロジックを動的に、容易に組み立てることができるとされる時代において、定型化された業務機能を切り売りするSaaSの価値はどこに残るのか、という問いである。そうした風潮の中でSAP Sapphire 2026は、ERP最大手として、SAPがこの問いに対する回答を提示する場となった。

2-2. SAPが宣言した「ソフトウェア企業からビジネスAI企業へ」の転換

イベントの冒頭を飾るグローバル基調講演の最後、SAPのCEO(最高経営責任者)Christian Klein(クリスチャン・クライン)氏は、「SAPはソフトウェア企業からビジネスAI企業へ進化する」と明言した。「コンシューマー向けAIなら80%の精度でも十分かもしれないが、世界の基幹業務を動かすには到底不十分だ(筆者訳)」[1]──Klein氏のこの言葉が意味するところは、「ERPベンダーとして50年の業務知見を持つSAPには、業務文脈・データ・ガバナンスを握る者としてビジネスユースに耐えうる信頼性と正確性を備えたAIソリューションを提供できる」という自社の競争優位性を明確に打ち出すものであった。いわば「生成AI時代において一般的なSaaSはその存在意義を問われるかもしれないが、業務データとプロセスを握るSAPはむしろ進化していく」。これが今回のSapphireから読み取れる最大のメッセージである。次の章では、そう主張するだけの根拠としてSAPがアピールする技術要素を見ていこう。

3. SAP Business AI Platform ─ 信頼を担保する3層アーキテクチャー

3-1. 3層構造:ビルド・コンテキスト・ガバナンス

新たに発表された「SAP Business AI Platform」は、「ビルド層」「コンテキスト層」「ガバナンス層」の3層構造からなる。ビルド層の「Joule Studio 2.0」がAIエージェントの開発環境を提供し、コンテキスト層が業務文脈と意味体系の理解をエージェントに与え、ガバナンス層の「SAP AI Agent Hub」がエージェントの統制を担う、という構成だ。中でもSAPが最も強調するのが、中央の「コンテキスト層」である。AIエージェントがいかに高度であっても、自社固有の業務とデータの文脈を理解できなければ実務では役に立たない、という発想に基づく。次節では、このコンテキスト層を支える技術要素を述べる。

3-2. AIのハルシネーションを抑えるコンテキスト層の技術要素

生成AIの基幹技術である大規模言語モデル(LLM:Large Language Model)の出力は確率的に決定されるため、従来、企業の意思決定を委ねるには正確性・信頼性が不足するという課題があった。今回SAPが示したシステムアーキテクチャーは、AIが実務に耐えるビジネスパートナーになる時代の到来を、聴衆に説得力をもって説明するものとなっている。その代表要素を以下表にまとめる。

表1:SAP Business AI Platformのコンテキスト層を支える主要技術要素

中核を担うのが「SAP Knowledge Graph」である。取引先・契約・財務勘定など業務エンティティとその関係性をグラフ構造で保持し、無味乾燥なデータモデルを読み解くための地図をAIエージェントに与える発想だ。「AIエージェントは700万を超えるデータフィールドから自律的に必要なデータを選び、権限・認証を確認したうえで、追跡可能な形で処理を実行できる(筆者訳)」[1]とSAPは説明する。生成AIの最大の弱点であるハルシネーションを抑え、監査・統制可能な形でAIエージェントを動かす道筋が示された。

SAPがこのアーキテクチャーを通じて実現すると主張するのが、AIエージェントが業務を自律的に動かす世界、すなわち「Autonomous Enterprise」である。では、このビジョンに先進企業はどう向き合っているのか。次章では、SAP Sapphireに登壇した先進4社の事例から、AI導入の前提条件を読み解く。

4. 先進4社が証言する「AI導入の前提条件」

上記で説明したSAPのAIソリューションの一般公開は、2026年第3四半期からとされている。ユーザー企業は、その展開にどう備えればよいのか。SAP Sapphire 2日目(5月13日)に開催されたCustomer Success Keynoteが、その答えを示してくれた。本セッションは、4社のSAP顧客企業が登壇し、SAPの執行役員の一人、Thomas Saueressig(トーマス・ザウアーエシッヒ)氏との座談会形式で進められた。以下、各社の語りを表にまとめた。

表2:登壇企業とそのメッセージ

彼らはいわばSAP ERP導入の先進企業であり、彼らを招待して、SAPがSapphire出席者に伝えたかったメッセージは次のように読み取れる。「AIエージェントを業務に組み込む前に、まず前提条件を整えなければならない。そうしなければ我々(SAP)のソリューション(Autonomous Enterprise)を導入しても効果は出ない」──というものだ。その前提条件とは、「クリーンコア」「データ整備」「チェンジマネジメント」である。

表3:Autonomous Enterpriseの前提3条件

5. 日本企業がとるべき道──「Autonomous Enterprise」時代に向けて今すぐ着手すべきこと

本章では、SAP Sapphire 2026を踏まえて、日本企業がとるべき道について、筆者独自の考察を述べたい。

【示唆① 日本企業がとるべき道──「Autonomous Enterprise」への本当の壁】

SAPはERP業界のリーダーとして、AIによる「Autonomous Enterprise」を推進する明確なビジョンと意思と能力を示した。もちろん、SAPソリューションの技術的な信頼性・課金体系は未知数であり、また特定ソリューションへの依存度が高まる可能性も考えられる。SAPに全面的に依存するべきか否かは別途論点となるだろう。しかし、SAPが掲げる前提条件──「クリーンコア」「データ整備」「チェンジマネジメント」──の3要素は、すべての企業がコミットすべきである。以下、SAPソリューション導入の進捗度別に、いま着手すべきアクションを整理する。

■SAP S/4HANA導入検討中・もしくは導入プロジェクト実施中の企業の場合──「業務とデータの再構築プロジェクト」として再定義する

結論として、SAP ERP導入プロジェクトを「業務プロセスとデータの再構築プロジェクト」として再定義し、「クリーンコア」「データ整備」「チェンジマネジメント」の本格的な取り組みを始めるべきである。単なるシステム刷新プロジェクトとしてカスタマイズ要望を積み上げる進め方では、AI時代に必要な土台は整わない。経営層の意思決定と、現場の粘り強い巻き込みの両方が必要だ。

これは、従来からERP導入で日本企業が直面してきた最大の壁である。トップダウンの覚悟とボトムアップの巻き込み。業務プロセスを聖域なく見直す覚悟、現場の納得感を醸成する地道な対話──AIで技術的にできることが急速に増える今こそ、ERP導入の原則を愚直に実行できるか否かが、企業の競争力に大きな差をもたらすだろう。

■SAP S/4HANA導入済みの企業の場合──ITロードマップを描き直し、クリーンコア化とAIエージェントのPoC準備に今すぐ着手する

もし自社のSAP環境がクリーンコアになっていないのであれば、ITロードマップを「クリーンコア化」と「AIエージェント導入」の2軸で描き直し、並行して進めるべきだ。両者は別個のプロジェクトではなく、対象業務の選定とデータ整備という共通の地ならしを必要とする。2026年第3四半期から一般公開予定のAI支援開発ツール「Joule Studio 2.0」により、クリーンコアを維持した形での追加開発のハードルは大幅に下がることが想定される。2026年末までAIエージェントのランタイム環境の無料開放も予告されており、PoC(概念実証)の準備──AIエージェント化対象業務の選定とデータ整備──には今すぐ着手すべきと考える。

【示唆② 「Autonomous Enterprise」における人間の役割】

率直に言って、今回のSAP Sapphireで掲げられた「Autonomous Enterprise」のビジョンに、筆者は強い興奮を覚えた。基調講演のアーキテクチャー説明、展示場の各所で行われたデモの数々──現時点でAIエージェントはまだ黎明期だが、将来、自律型AIエージェントが中心となってビジネスが回る社会が来ると感じさせるに十分だった。

しかし、ここで冷静に、「Autonomous Enterprise」時代における人間の役割を考えたい。

一般に、AIエージェント導入のセオリーでは、人間のあるべき姿は「Human in the Loop」──システムが業務処理を行う際に人間が監督者として関与し続けること──だとされる(AIによる処理結果を人間が確認・判断する、など)。

一方で、SAPがSapphireで示したのは、自律化が究極まで進んだ世界の到来を予感させるビジョンだった。そのような世界では、平時の「監督」だけでは不十分である。AIに任せる業務が増えるほど、任せている作業の中身を組織として正確に理解し続ける取り組みが、むしろこれまで以上に重要になる。いわばBCP(事業継続計画)の重要性が、これまでとは桁違いに高まるだろう。システムが止まったとき、人が手作業で業務を回せるよう「避難訓練」を続けなければならない。直近でも、企業がサイバー攻撃を受けシステム停止を余儀なくされた事例が複数報道されている。自律化が進めば進むほど、システム停止時の人間の対応力は構造的に劣化する。有事のレジリエンス(回復力)をどれだけ組織に埋め込めているか──これは技術ではなく組織の問題だ。

SAP Sapphire2日目Customer Success Keynoteの冒頭、SAPの執行役員Thomas Saueressig氏は、NASAの有人月周回ロケット計画「Artemis II(アルテミス・ツー)」の主要参加企業の多くがSAPソリューション導入企業であることに触れた。ケネディ宇宙センターにほど近いオーランドでは、宇宙プロジェクトへの言及が頻繁に行われる(実際、Sapphireの会場でも、ちらほら、NASAへのオマージュを目に・耳にした)。ここで筆者の脳裏に浮かんだのは、アポロ13号の逸話だった。月へ向かう途中で酸素タンクが爆発し、月着陸を断念して地球帰還を目指した3名の宇宙飛行士は、地上の管制官と協力して、手計算と手動操作で生還を果たした。アポロ計画の真の偉業は、有事における手動オペレーションへの切り戻し能力にあったとも言える。AIエージェントが業務を自律的に動かす時代に企業が問われるのは、これと同じことだ。システム停止時、データ矛盾時、AIの誤判断時に、手動オペレーションへ切り戻せるか──これがAI時代のBCPの本質である。

AI業界で語られる「Human in the Loop」は、多くの場合「平時にAIを監督する人間」として理解される。だが自律化が進むほど、平時に人間が監督できる余地は狭まる。むしろ重要なのは、有事の判断と操作で業務を救う「救命艇としての人間」の役割の整備だろう。業務手順書、手動運用シナリオ、人材教育、経営判断のためのデータ可視化──「Autonomous Enterprise」時代のBCPは、これら旧来の地味な取り組みの再評価を促すはずだ。

出典

[1]SAP News Center, “2026 SAP Sapphire keynote: SAP Unveils Business AI Platform to Power the Autonomous Enterprise,” https://news.sap.com/2026/05/sap-sapphire-keynote-business-ai-platform-power-autonomous-enterprise/(参照2026年5月18日)
[2]SAP、SAPロゴ、記載されているすべてのSAP製品およびサービス名はドイツにあるSAP SEやその他世界各国における登録商標または商標です。

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